焼き栗日記

愛情と憎悪とを狂気で接合しています

#12/23 目的については適切な処置を

今日は、クラス内での日誌、寄せ書き、そして今など、文章を書くことで忙しい日でした。ここ最近はそういう文章を書く能力が著しく衰えているので、単に苦痛な時間でした。

 

今日のH、彼が板書をしている時に誰か生徒がくしゃみをして、それを聞いたHは「大丈夫か?」と心配していました。その生徒が羨ましかったので、私はそれに便乗してわざとらしく大きめな咳をしてみました。しかし、Hは私に反応せず、そのまま授業が進行しました。一番後ろの席なのが良くなかったのです。とはいえ、少し悲しかった。

最近のHの授業については、生徒側があまりにもやる気を無くして、死屍累々とした様相を呈しています。黒板を眺めているものの何も考えていないだとか、そもそも寝ているだとか。その点私は真面目で、例の寄せ書きを書いたり、この前受けたセンター模試の復習をしたり、とにかく有意義な時間の使い方をしました。Hの授業という時間を最も有効活用出来ているのは私ではないかと思います。Hもきっと喜んでくれることでしょう。

 

某英語教員が、授業の終わり際に「この時期に成績上げようと思ったらお年寄りに席譲ったり、落ちとるゴミとか拾えよ。」と言っていました。善行を積むことで、神様はきっと見ていてくれるから、受験で良い結果が出せる、そうです。私は、席は譲るものではなくむしろ勝ち取らなければならないものだし、相手(ゴミ)は拾うものじゃなくてむしろ蹴落とさなければならないものだ、と思っていました。そもそも、善行を積むこと、それは本質的には見返りを求めて行われるものです(物質的なものにかかわらず、感謝の気持ちだとか、評判だとかを含む)。なので、それによってもたらされるものは、相手からの善行で可能な範囲に留まって、人為的なものに左右されない、それこそ受験のような場で、普段よりも良い結果を出す、つまりまぎれを起こすための運を発揮するようなことは不可能です。そうするためには、以前も書いた通り風水でもやったほうが良い。目的に対しては、それに適切な方法で、因果関係に基づいた行動をしていくべきだ、と思いました。帰結としては、やはり某英語教員はクソ、という話で終わります。