焼き栗日記

愛情と憎悪とを狂気で接合しています

#10/31 逢う魔が時

私たちの学生生活が終わりに向かいつつあるこの時期、以前から続いていた某猿と某紙の闘争が、終章に突入しました。放課後、某猿が某紙の教室まで出向いて、突然殴ったのです。某紙は血を流して、保健室へ行きました。どうやらその後病院に行ったみたいです。しかも、某紙は明日が防衛医大の入試です。某猿は勝負にこそ勝ったものの、色々な物を失った、と、外の人たちから見たらそうなります。でも、それだけで終わらせてしまうのはなんだか違う気がします。私は、彼らの闘争を、割と最初の方から眺めていました。某猿がそんな凶行に及んだ理由も、大体は知っているつもりです(さすがに唐突に殴ったのはどうかと思いますが)。この事件は、単純な学生同士のいがみ合いというより、某猿の根源的な在り方が問われたものなんだと思います。彼らは運命的に、争わなければならなかった。なんだか、この事件の根自体は浅いですけど、浅い割に曲がりくねっていて、到底先が見えない、そんな感じです。今ネット上で友人たちが噂して、あることないこと憶測が憶測を呼んで、まさに混沌とした様相を呈しています。面白いというよりは、理解されない気持ちが見ているこちらも辛い。ここまできてしまった闘争は、破滅的な最後を迎えるしかない。彼らのつかみ合いを止めた教室にいた生徒だとか、学校の存在だとか、邪魔者が多すぎて、気持ちの良い最期を迎えられない状況、歯がゆさを感じます。この際、どちらかが息絶えるまで壮絶に争ってもらいたい、というより、争わさせてあげたい。今の私の空虚感、大作アニメを見終えた後のような気持ちで、とにかく辛い。私まで暴れたくなってきました。こういった感情がみなに広がって、学校の崩壊の萌芽とは、案外こういうものが端緒なのかも知れません。

 

「論理性のない、ふわふわしたもので、僕を縛するな。」という友人の発言を引用して。確かに世界の真理的な論理はどこにもないかもしれませんが(そもそもそれを理解している人間はいるのか?)、それには紛れもなく、"その人の論理"が存在しているのです。だから、その言葉を打ち負かすためには、その人の在り方そのものを否定する心構えでいなければならない。前述の彼らもそうですし、昨日のHもそうです。例としてHを用いると、「休み時間も懸命になって勉強しなきゃ」、休み時間は無論"休む"ためのものなので、それに教師が口を挟んでくるのはどう考えてもおかしいですが、Hの中ではそれこそが正義なのです。そしてこれは、今まで懸命に生きてきたHの生き方そのものを象徴しているのでしょう。確かに、ひたすらストイックに仕事に励むHにはふさわしいものです。私もそれなりに老成しているつもりですが、それでも単純にいきた年数が違う、積み上げてきたものが違うHの言葉には逆らうことなど出来ず、おとなしくなってしまいます。教師・生徒の関係など、そんなものです。そして、論理なんてものも、そんなものなのでしょう。

ちなみに私は、それでも今ゲームをやっています。素直な心の勝利です。絶対にHなんかに負けたりしないぞ。