焼き栗日記

愛情と憎悪とを狂気で接合しています

#10/30 銀の弾丸で狙う場所

昨日書いたことがあえなく的中して、予想通りというかなんというか、Hのことが嫌いになりました。

今日は授業中に唐突に説教が始まりました。先日のマーク模試の自己採点結果、それの数学平均が低かったようです。学年の雰囲気が受験生のものではなく、ゆるやかな波を感じる(?)と言っていました。でも、ちょっと前まで彼は「学年の雰囲気良くなってきたね!」と褒めていたのに、模試の結果が悪かったと見るや一転攻勢して怒り始めるところ、主体性がなさすぎる気がします。そして、私たちが怠けているのは、Hの言う通り"ゆるやかに生きる"ことを目標としているからではなく、単純にまだ危機感が希薄なだけなはずです。その辺を勘違いされては困ります。

それにしても、散々「雰囲気がゆるやかだ!そんなんじゃダメだろ!しっかりしなきゃ!」と、"ゆるやかであること"を否定し倒しておいて、「ゆるやかに生きたいならどうぞ、否定はしないよ。」と言い放つのはどうかと思います。

 

自殺方法について、今まで私は薬や練炭などの"苦しまない方法"を使おうと思っていましたが、最近それは違う、と分かりました。なんのために自殺をするのか、前述のような方法では、キリスト教では自殺こそ最大の禁忌ですが、その罪を他人になすりつける、単なる逃げ、他人に対する痛烈な批判で、いわば他殺的な自殺です。そんなものじゃこの渇きは満たされない。銀色に光る刃物で、肉と肉、骨と骨の間を縫うように、心臓をグサリと一撃穿つ。暴力的に迫る死と、それゆえの猛烈な生の喜び、そういったものを感じながら、死んでゆきたいです。そうでもしないと今まで生きてきた意味がない。快楽主義の行き着く場所は、この辺りになるのでしょう。人を破滅に導く道だ。