焼き栗日記

愛情と憎悪とを狂気で接合しています

#7/20

今日は日曜日であり、なによりも夏休み初日です。そんなわけで学校に行って来ました(?)。私達は不条理にも、"自称進学校"に通う者の宿命として、強制的に補習と題した授業を受けさせられます。前にも述べた通り自分で勉強した方が効率は良さそうですが、仕方ありません。日曜日で車すらあまり見当たらない真夏の路地を一人自転車を漕いで進むのは精神的につらいものがあった。明日は海の日ですが、それでもやはり学校はあって、これは海に対する冒涜なのではないかと。

 

さて、毎回恒例となった感のあるHのテスト後のお説教、その中でHは「しょうもない計算ミスが"あまりにも多すぎる"!」と言いました。この"あまりにも多すぎる"という表現に何かひっかかっています。このような感じで多さを表す語を二つ同時に使用するのは正しいことなのでしょうか。ちょっと検索してみてもなかなか見つからなくて困っています。「あまりにも」を「とても」と、似たような言葉で変換してみると、「とても多すぎる」ではやはり言葉の使い方がおかしい感じです。「とても多い」が正しい。授業中はずっとそのことでモヤモヤしていました。ちなみに今回のHの目標は「平均七割!」でしたが実際は54点ほどでした。あゝ無情。

あと、今日はHにたびたび指名されて当てられたのですが、私にしては珍しく冴えていた。軽く自己陶酔に浸ることが出来るくらいには冴えていて、Hが「そうだな!」と言った時には、ドーパミンだとかノルアドレナリンだとか~~刺激ホルモン放出ホルモンだとか言ったような脳内物質が脳を駆け巡る思いがしました。「困った時は極形式!」、これはHが多様するオリジナルのフレーズですが、これを答えることが出来たのは、H研究に余念のない私だからこそであります。ブログを始める前もですが、始めてからは一層そういったHの発言へのアンテナの感度が強くなっているようで、ようやくこのブログの、Hとの日々を記録する役割が果たされてきた感じです。ただ一つ悲しかったのは、私は「コサイン」と言ったのに、Hはそれを「サイン」と言ったものだと捉えたことです。私の滑舌が悪いのが悪いのか、Hの耳が悪い(過去の行いからしてもそれは明らかである)のが悪いのか。恐らくその両方だと思われます(自戒)。

 

先程とある友人の書いているブログを読んで感銘を受けたので少し追記しておくと、私は生来自分の感情を説明したり文字に起こしたりするのが苦手で、なぜ~~と思うのか、と聞かれても上手く描写することが出来なかったりします。よく考えると感情に論理がないのは当たり前で、なぜそう思うのかと聞かれてもそう思うからだとしか返答しようがないわけですが、それでも論理が最優先される現代においては説明が出来なければそれは成り立ってないとされてしまう。そんな社会なので私の立場は非常に弱い。その友人は、明晰に彼の抱く感情を熱烈に描写することに成功しています。その文章はとある人物への悪口なのですが、これには私も実に共感出来る内容であって、それを文章化した彼の功績はとても大きい。他のある友人は「クズ(彼は紛れも無くクズであり、自覚もしているようだ)の書く文章はある種特有のキレがある」と評しましたが、まさしくそんな感じで、クズにもクズなりの矜持があるのだなと思いました(褒め言葉)。