焼き栗日記

愛情と憎悪とを狂気で接合しています

#11/7 解放だ

さすがに二日連続ではサボりません。

 

今日、先述の某数学教師から試験の答案が返却されました。その結果、一枚目は満点でした(すごい!)が、二枚目は0点でした(すごい!)。残る三枚目はHの管轄なので、前回の経験から鑑みるに、"不当ないちゃもん"をつけられて、0点になっている気がします。もし本当に満点、零点、零点だったらちょっと面白いですね。結果は明日のHの時間で分かることです。

 

"論理"というものをいたずらに盲信して、それ以外のものは決して認めない、というような人が結構いて、些か鼻につきます。論理なんていうまさしく空想の産物といった形容が相応しいものを重要視して、人が生きていて感じる"ナマ"の感覚を軽視、もとい蔑視するのは、順序を間違えていると思います。無論そういった形而上なものにこそ真理がある、とはよく言いますし、その通りだと思いますけど、生きていくうえで、それも日常生活の中で、流れてくる様々な事象に臨機応変に対応してゆく時に、そんな真理を追い求めるの、少し悠長すぎではないですか。畢竟論理とは、その人が感じた"感覚"の表象でしか足り得ないし、その人固有の考えをより一般化するために一部を切り捨て一部を付け足しの操作を加えた後の産物であります。その操作で、案外失われるものが多かったりする。逆に直接感じられたことは、その人というフィルタを通してではありますが、世界の真理が集う場所、根元の渦から漏れ出たものでしょう。論理はそれの肉付けでしかない。だから、そんな堅っ苦しくて、かつ融通の効かないツールに依存しすぎるのはやめよう、ということです。とは言え、私とて「その言論は論理性に欠けるから信用出来ない。」と言い放つことはあります。この場合は、単にその人の"感性"自体を批判しているのです。論理構成が下手、"感覚"の編集が下手だとか、そういう点もありますが、それよりも彼のアンテナが不良品なのです。どんな真理を体得していても、それが彼というフィルタを通じたおかげでちゃんちゃらおかしいものに変わったりする。こういう人を見ていると、もどかしくて、もったいなくて、苛立ちさえ覚えます。死んで出直せ、ってやつです。死んで器をリセットした方が良い。

 

今気づいたのですが、どうやら今週の日曜日、模試があるみたいです。それも実戦形式の。現状、未だ変化なしなので、そろそろ動かねばなりません。今のところ、数学と化学はまるまる手付かずで、穴と化しています。とりあえず化学だけは頑張ろうと決意してから一体何日たったでしょうか。ある友人は、「俺は高3の12月から本気出すから。」と以前から公言していて、私もみんなといっしょに馬鹿にしていたものですが、今になって振り返ると、今の私もその言葉と大して変わらないような状況にいて、怠惰の対価というものを実感します。でも、私は彼とは違う、そうでなければならないので、11月、つまり今月から、本気を、出さねば。